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名作漫画・寄生獣についての考察

先日アマゾンプライプで寄生獣の映画版を観ました。そのあと原作の漫画を読み返したのですが、やっぱり面白いですね。今回の記事では寄生獣という漫画を深く考察していきたいと思います。

 

寄生獣という漫画の哲学

寄生獣という漫画は、古典を代表する漫画と言われています。そして、その内容の知識的な範疇が、学校の入試課題テーマになることもしばしばで、あえてマイナーな漫画が、知識層には受けている証拠にもなっています。

冒頭のシーンから、人間社会に疑いを持たせるという設定になっているので、人間の営みをある種客観的に見ることのできる、漫画設定となっています。そして、その人間に寄生するという点で、次第に知識力を身に着ける地球外生命体のシーンが始まりますが、その動きとしては、あえて心理的に理に適う動きをしています。そこでは、異種として映る人間に、まさかの捕食の対象とするような、種別間の意識についての生物学の理論的展開が含まれています。

寄生獣という漫画の特性

寄生獣という漫画の特性として、このストーリーが現実味を帯びた作品になっている点が、優秀と言われる筋があります。このリアリティとしての作品の運び方は、漫画の中でもリアリスティック手法とよんでも差し支えないものでしょう。もちろん、シーンは超次元的な内容ですが、そのリアリティの面で、読者を引き込む性質を持っています。つまり、描写に関する簡易的な側面は無視しても、内容の描かれ方が、内部の世界に入り込むという、あり得そうな話展開がポイントなのです。この、リアリスティックなシーンの連鎖により、あり得ない内容が、映画のシーンのように展開されます。多少とも、他の漫画では、シーンに対しあり得ない笑いの供与などで、これはフィクションです。という働きを持つのですが、寄生獣ではその点で、読者を茶化すような描かれ方がありません。これは、作者が真剣に伝えたいと思っていた、漫画全巻を通して貫いたメッセージ性のとおりかもしれません。

描写系で、その話のストーリーのリアル性を出す作品もありますが、あえて、寄生獣では、そのストーリーの連結性において無駄のない点が、リアル性を醸し出す強い要素となっています。

寄生獣の挿絵は象徴的

寄生獣の挿絵は象徴的に描かれている面があります。これは、面白いというイメージというよりも、あえて漫画チックな描かれ方が、他の漫画と違う点になります。つまり、描写性によって、現実性を出すという意味ではなく、新聞のコラムのような絵もあり、それが、真実を表現するのに簡略化された画であるといえるのです。そして、その挿絵の象徴性が、子供でも読むことのできる、怪奇漫画という形になるのです。

漫画の挿絵によって、漫画の評価をするという、評論の舞台もありますが、実際の漫画のストーリーというのは、小説のような台本から始める方が、読者を納得させる意向をもっています。つまり、その挿絵で脚本をフォローするのか、それとも、その台本をアシストするのかで分かれる点があるのです。挿絵で脚本をフォローするというのは、画で内容をカバーするという構造になり、アシストするというのは、台本・脚本を読者に読み込ませるために、挿絵を利用するというタイプになります。後者の漫画というのは実際、数が少なく、つまり、小説となっても読みごたえがあるかどうかについて、脚本の部分で弱いことが、多いのが漫画界の特徴になります。それは連載物としても、最初から最後まで連結構造が脆弱している点は、あえて文庫連作になったときに、荒が出てしまうものです。

グロテスクな表現にも知性がある

グロテスクな表現というのは、実際漫画であっても倫理的に問題があるとされるのがふつうですが、寄生獣では、それはある程度許可されています。それは、社会問題を扱う、ルポルタージュの表現という意味で、テレビに骨が映るような効果があります。つまり、象徴的にもある種具体的にも挿絵のショートシーンで、その生々しい危険度を表現しています。ですが、これは読者獲得のための、見た目シーンというイメージではなく、あえてその具体的な残酷性を被批判する意味としての、シーンの展開です。ですので、その挿絵が一部分グロテスクすぎるとは言っても、実は、心理的なグロテスクを表現する象徴表現であると、言い換えることもできます。ですので、寄生獣におけるグロいシーンカットは、その対象の批判という形で、ある程度了承されます。それは、ブラックな系統の漫画というイメージではなく、あえてホワイトな世界を目指そうとする著者の意向が現れたものでしょう。

グロテスクな表現でも茶化すことは可能ですが、あえて寄生獣では、その具体性をもって、映画のような見え方がするものです。そして、あえて漫画の中だけで、それが完結して、映画化するとは言っても、その描写の困難さが、読者獲得に走らなかった著者の作風と言えます。

物理的に不明な箇所もあるが話の理論が通る

物理的に不明な箇所の表現というのは、あえて漫画風にしていて、その物理的連動性が、子供でも読める形にしている点が、漫画と言われるゆえんです。ここで、漫画の枠を外して、リアリスティックにものの物流力学まで描いてしまうと、それはあえて余計な補足説明とならざるを得ません。

つまり、物理的に不明とされる描写筋でも、その配役なりの展開が、漫画としての補足になっているのです。これは、無理やりの話の設定ともとらえられますが、実際は、漫画のわき役に必要だったテーマであり、漫画の基本事項をおさえたキャスティングとして褒められるべきです。つまり、キャスティングの物理的要素がある程度、不明であったとしても、メインテーマに対するシリアス性を緩和するための、補足であり、それは映画やドラマにもある手法です。ですので、漫画を作りこんだという点では、それは擁護されると信じます。

寄生獣において、細かなシーン設定は連結という場面の組み方で、おかしくはないという理論値があるので、あえて物理的に不明とされる箇所でも、筋書きの理論展開で、読者をはまりこませます。

人間が不要という仮説に対し

人間が不要かもしれないというメインの仮説に対し、物語は展開していきます。これは、人間自体への懐疑心として、主人公にもさしはさまれる心理的側面があり、その中で葛藤していく主人公の姿が、はたして異種間の殺意に対しては、許容されるのかされないのかという、心理的な問題がテーマとなっています。

これは、法律にあたるあたらないという場面より、最後のシーンで、本当の残酷という悪魔が人間の中にいるという解答で終わります。つまり、人間の中を生物学的に見ても、充分に異種の動物よりも残酷な世界があるというテーマになり、事実人間はそのことを隠して生きているという主眼になるのです。

これは社会心理学としての成功を納めた漫画であると断定できます。つまり、物語のシーン展開はあえて象徴的に描かれていたのであって、そのシンボリズムが展開していた真の内容は、人間社会のことであったかもしれないという結実点があるのです。その読者をひきつけていた残酷なシーンは、人間社会の事ではなかったのかというテーマが最終的に結ばれ、その仮説としての人間は不要なのかというテーマにも、人間の愛という救いがあるのではないかという、光を見せています。

恋愛としての守る力

寄生獣においては、恋愛のシーンはかなり少な目に描かれています。これは読者獲得のための手法というよりも、漫画のファクターとしての要素の強いものです。そして、恋愛が結ばれるという恋愛漫画のイシューとは全く違う部分のはなしになります。そして、この漫画の中では、女性という部分に対しても、その子孫が受け継がれるという展開のみの表現で、恋愛自体の問題の極小化が図られています。

つまり、恋愛という人間の営みはあるが、実際の子孫の系譜という点で考えると、我々人間はあらゆる外敵にまみれているという、おそろしい世界の再表現がテーマになっているのです。そして、愛を守るために、恋愛をもまもる仕組みがなくてはならないという、あえて控えめな表現展開が、寄生獣の恋愛シーンとも呼べます。つまり、画に頼らない、人間社会の側面としての恋愛があり、それでさえかなりのリアリティの部分があるという話です。

読者の中には、浅い部分もあるかもしれません。そして、そのグロテスクなシーン展開においても、その画だけで語る部分がありそうです。ただし、寄生獣では、その脚本筋の展開がメインであり、その補足としての挿絵の表現であることを覚えるべきでしょう。

警察機構の加味と関与

警察機構としての、味を加える点が、寄生獣には描かれています。これは、犯罪を取り締まる方が、犯罪そのものをその心理的状況とし、その関与者に対して、訳ありをもとめる行為として美しく映っています。

これは、主人公が事件に巻き込まれたとしても、彼が主犯ではないと見抜く性質と、犯罪加担者でもないとする警察機構の直感が優れています。よくある、刑事ドラマのかんたんな展開ではなく、これは、警察の人員が人間であり、真実を見つめているという見方をしている点で、主人公の擁護者となったのです。そして、その挿絵の描かれ方も、美しいシーンカットとなっていて、主人公が被害者としていたわられる部分として、名脇役の警察機構の登場となっていました。

この人間が人間を裁く問題において、心ある人たちはそれを見ているという、充分に意味の通じる人間社会の救われる部分としての表現であったことは賞賛に値します。これは、よくある米の映画での警察汚職や、かるいポリスシーンとは打って変って、日本の警察の渋い、歴史ある判断力という点に重きを置いているのが、あえての日本を代表する作風という決定打となります。

宇宙人の話にしては

宇宙人の話にしては、その宇宙人が宇宙人らしくない点で、そのシンボリズムの働きがあります。つまり、子供でも見る事のできる簡単な挿絵が、面白くも映るのですが、あえて人間と同居している動物からは実際こう見えているのではないかという、心理的な理論性があるのです。ですので、宇宙人がなにがなんでも、悪者であるという意識を読者に投げかけるのではなく、あえて客観的な判断を主人公に求めているという点が、読者の判断をも引き付ける要因となります。

実際主人公は、宇宙人とのハイブリッドタイプとなってしまったのですが、それが為に、宇宙人との対等の会話が成立してしまうという部分もあり、これは、少年ものの漫画が成長過程で知っていくという、ストーリー展開よりも、より哲学的な思考に変わっていく点が、優れた物語と言えます。ですが、決して内向的な心理作風になる訳ではなく、守るために、外部に働きかける主人公の姿が、リアリスティックな保護とは何なのかというテーマも見させてくれます。

つまり、内向的な心理戦に依る漫画ではなく、そのアクションの部分で、興味をひくアクション性能という展開より、保護する・戦うという具体的な動向が、読者を守る意味にもなっているのです。

結果的に人間の悲哀

寄生獣の言っていたシンボリズムに依るメッセージ性は読者それぞれの考え方に任せられるポイントですが、実は、そのストーリーに描かれていた悲哀や、哀歌自体は、人間社会そのものだったという点が、多くの読者に共通する最後のシーンの見方であるとおもいます。シーン設定に関しても、あえてゲームにあるようなシーン展開も途中であったかたちになりますが、一番残酷なのが、人間社会であると、その具体的な内容は隠されているという意味が、強いメッセージテーマとして結ばれます。

そこには、具体的な救いとして現れる世界ではなく、宇宙人が退避したような、結局人間社会は人間自身たちがつくっていかなくてはならないという、あいまいな希望で終わっているのです。これは、決して漫画が終わったという話ではなく、だれが、人間社会を守るために働くのかという問題点。そして、人間社会を斜めから哲学的に見ていく世界は、誰かがメッセージプレスしなくてはならないという、著作者の表現者としての点がうかがえます。

この対社会メッセージ作という点で、通常の漫画にあるような作品としての仕上げ方が、あえて稚拙である点が、手作りという漫画の作品の良さにもなるのです。現代の画のきれいさからすれば、敬遠しそうな古典的画法ですが、それは、漫画というジャンルが、新聞の脇役であった歴史と同じ意味でしょう。